郡上八幡城から西に500m程の場所に『尾崎』『向山』と言う山と川に挟まれた地区があります、その地区の山の裏手は『五町』といい少し開けた地区で、堺の山を尾壺山(五丁山)と呼びます。
近代では一部には公園等も出来て公園内には郡上踊り独力先人顕彰碑、郡上踊句碑などが立っています、実は昔その尾壺山一帯にかなり広大な砦(尾壺城)があったようです。
山の麓には洞泉寺、大乗寺、楊柳寺などの歴史あるお寺に、神社、延命地蔵の祠などもあります。
この尾壺山一帯は、長良川、吉田川、小駄良川と3つの河川に囲まれ、小駄良川対岸の八幡城と城下の監視には最適で、豊富な湧き水もあり守備としてもまさに要害の城郭だったと思います。
この城『濃北一覧』では佐竹氏の城跡となってるもようです、又、城下でも佐竹氏が居たとの伝承もあり、尾壺山一帯を(大乗寺から洞泉寺)にかけて佐竹洞(ぼら?うつろ?)と呼ばれていたようです。麓の大乗寺にはお墓もありますが(佐竹蔵人とその一族)佐竹氏と言えば常陸で勢力を誇った一族ですが、果たして常陸の佐竹氏の分家、又、系列の一族が郡上を治める為に城を築いた事など有得るんでしょうか!?
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『郡上八幡城方面からの尾壺山風景と尾壺城跡図』

古代、美濃国を所領され移住し佐竹氏(美濃佐竹氏)と称した一族が居たという話もあるようですが、美濃国のさらに山奥の辺境地に地頭として配属され尾壺城を築いたと言うのもなんか不可解ですね…。
平成4年にこの尾壺城(土塁が残っている)実質調査されたところ、戦国時代の城郭という確認はされたらしいですが、築城者や詳しい年代についてはやはり資料が全くなく不明みたいです。
『どなたかタンスの奥に資料が眠ってませんか?(笑)』
尾壺山麓の大乗寺は遠藤慶隆が現地に建立した云うお寺ですが、尾壺城跡も八幡城に対する砦として遠藤慶隆が作った可能性があると、大乗寺のご住職は以前本に記載されてみえました。
なぜ尾壺山城跡にスポットを当てたかと言うと、実はこのブログ管理人は男系先祖が古来より尾壺山麓の地域に住んでおり杉田と言う武家でした、現在姓も変わり居住区も違いますが、この杉田家は代々の家紋に扇紋を使用していたようです、扇と言えば佐竹氏系列!?ただ家紋は明治維新後、自由に持てたとの事でその上推測するのは微妙ですが…ちょっと長くなりましたのでこの続きはまた次回に。。
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『大乗寺鐘楼門(郡上市指定重要文化財)と墓地案内板』